2005.07.23

今週のドライバー(ミハエル・シューマッハ)

生年月日 1969年1月3日
国籍 ドイツ
身長 174cm
体重 74.5kg
趣味 時計収集、カート、映画鑑賞
住所 スイス
婚姻の有無 既婚(コリーナ夫人、1男1女)

F1デビュー前(~1991年)

カートコースの職員だった父の影響で幼少時からカートを始め、1984年1985年にドイツジュニアカートチャンピオン、1987年にはドイツ・ヨーロッパ・カートチャンピオンとなった。メルセデス・ベンツに才能を見出され、スポーツカーシリーズ(プロトタイプ)、F3に参戦。1990年にはドイツF3王者となり、同年のマカオGPでもイギリスF3王者ミカ・ハッキネンらを制し優勝した。 1991年7月全日本F3000第6戦にスポット参戦、初参戦ならび初めてのサーキット(スポーツランド菅生)ながら決勝で2位を獲得。なおF3からF1へステップアップする間に参戦したF3000のレース(チーム・ルマン チームメイトはジョニー・ハーバート)はこの1戦のみである。

ジョーダン→ベネトン在籍期(1991年~1995年)

1991年8月ベルギーGPにおいてジョーダンからF1にスポット参戦し、いきなり予選7位を獲得。決勝は0周リタイアに終わったものの、この活躍により、次戦からロベルト・モレノを追い出す形でベネトンのレギュラーシートを獲得する(この一連の移籍劇にはメルセデス・ベンツが絡んでいると言われている)。 翌1992年、雨のベルギーGPでF1初勝利。1994年にはチャンピオン候補筆頭と目されたアイルトン・セナの事故死もあってシリーズを独走。しかし、黒旗失格、出場停止などが響きデーモン・ヒルの追従を許してしまう。結果として最終戦までもつれるがヒルと接触、コース外で初のドライバーズタイトルを獲得(ドイツ人としても初)したが、この件は物議を醸すこととなった。 1995年には2度目のドライバーズチャンピオンを獲得した。

フェラーリ在籍期(1996年~)

1996年には名門フェラーリに移籍し、3勝し長く低迷していた同チームを再建。 1997年には、最終戦ヨーロッパGPでタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴと接触しリタイア、故意の接触と見なされシーズン終了後、ランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。 F1デビュー以前には1990年のF3マカオ・グランプリでも、当時からライバルだったミカ・ハッキネンに最終ラップで接触、リタイヤに追い込んで勝利を手にしており、勝利のためには手段を選ばないと評する向きも。 1999年はシリーズをリードするも第8戦イギリスGPでクラッシュ。足を骨折して7レースの欠場を余儀なくされ、ドライバーズタイトルを逃すも、チームに1983年以来となるコンストラクターズタイトルをもたらす。 2000年にはついに自身3度目、フェラーリ在籍ドライバーでは1979年ジョディ・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。

2001年にはアラン・プロストの持つF1最多勝記録を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。Michael_Schumacher_win_2004 2002年には、ファン・マヌエル・ファンジオの持つ偉大な記録に並ぶ5度目のチャンピオンを獲得し、2003年2004年もチャンピオン獲得。計7度のチャンピオンに輝いている。 2005年は、第8戦カナダGPまでなかなか勝てなかったが、第9戦アメリカGPでミシュラン勢がレースを事実上ボイコットしたこともあってようやく1勝をあげることができた。

チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことで有名で、スペアカーの使用権、ピット作戦の優先権のほか、チームメイトに優勝を譲られることもあった。 (2001年、2002年のオーストリアGPが物議を起した)これらは契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明である。しかし、元チームメイ トのジョニー・ハーバートエディ・アーバインの発言からその内容がうかがえる。

シューマッハはスキーサッカーなどを趣味にしており、オフシーズンには毎年のようにスキーを楽しんでいる。サッカーに至ってはプロ並の腕前であり、自宅のあるスイスのプロチームに所属していたこともあるほどである。サッカーのチャリティーマッチにもたびたび出場している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

今年は非常に調子が悪い。
車の戦闘力、タイヤ、運すべてにおいて見放されている感じがする。
モナコやサンマリノは勝機もあったのだが予選でミスしたりパフォーマンスがでなく敗れた。
巻き返しを期して望んだフランス・イギリス両GPもマクラーレン・ルノーに力の差を見せ付けられ今年は終わった感が強い。チームも来年のV8 2400ccの開発へと力を注いでいくだろう。来年は正念場になるかもしれない。

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2005.07.09

今週のドライバー(ジェンソン・バトン)

生年月日 1980年1月19日
国籍 イギリス
身長 182cm
体重 74kg
趣味 マウンテンバイク、インターネットサーフィン、コンピューターゲーム
住所 バイセスター(イギリス)
婚姻の有無 独身

8歳でレースキャリアをスタート。1998年イギリス・フォーミュラ・フォード王者などを経て、1999年イギリスF3参戦。参戦初年度ながら3勝を挙げシリーズ3位に食い込む活躍を見せ、この年のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝く。これの副賞として、ジェンソンはこの年の9月マクラーレンのテストに参加しF1ドライブを初体験。続けて、アラン・プロストから直々にオファーを受け参加したプロスト・グランプリのテストドライブでは、レギュラードライバーのジャン・アレジを上回るタイムを記録し注目される。

 そして2000年の初め、ジェンソンに大きなチャンスが舞い込む。F1の名門チームウイリアムズは、解雇したアレックス・ザナルディの代役を決めるトライアウトを 開催。チーム代表のフランク・ウイリアムズからオファーを受けてこれに参加したジェンソンは、ブラジル人ドライバーのブルーノ・ジュンケイラとの激しい争 いの末、見事ウイリアムズのレギュラーシートを勝ち取った。20歳でのF1デビューだった。大きな期待とプレッシャーの中で、ジェンソンはドイツGPで4位入賞、計12ポイントを獲りランキング8位という成績を残した。

 だが2001年シーズン、ウイリアムズはCARTチャンピオンのファン・パブロ・モントーヤがチームに加入したことを受け、ジェンソンをベネトンレンタル移籍させる。この年のベネトンは戦闘力に欠けるマシンで、入賞はわずか1度、2ポイントに終わる。2002年もベネトンを買収したルノーから引き続き参戦、自己最高の14ポイントを獲得するが、翌2003年は同チームテストドライバーのフェルナンド・アロンソに押し出される形でB・A・Rに移籍。しかしここでジェンソンは、エースドライバーのジャック・ヴィルヌーヴを上回る7度の入賞を果たす。

 ヴィルヌーヴのチーム離脱を受け、エースとして迎えた2004年シーズン、高い戦闘力をもつマシン(B.A.R Honda 006)を駆ったジェンソンは、第2戦マレーシアGPで3位となり初めて表彰台に上る。これをきっかけに、ウイリアムズやマクラーレンの不振にも乗じて表彰台には計10度上った。また第4戦サンマリノGPでは初のポールポジションも獲得。B・A・Rのコンストラクター・ランキング2位躍進に大きく貢献したもののフェラーリの壁は厚く、またチーム戦略の拙さもあり、初優勝にはあと一歩手が届かなかった。

 2004年シーズン中、ジェンソンにはウイリアムズへの移籍騒動が勃発したが、契約承認委員会(CRB)の裁定により、2005年はB・A・Rに残留した。現在のチームメイトは、日本人ドライバー佐藤琢磨である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

buttonB・A・Rホンダのエースドライバー。昨年はシーズン中、ウィリアムズへの移籍を画策したが契約に縛られB・A・Rホンダに残留した。今季の成績であればパフォーマンス条項を利用して(もしかしたら契約が今期までか?)ウィリアムズに移籍するのだろうが、その肝心のウィリアムズが成績が良くなく、エンジンサプライヤーのBMWがザウバーを買収したため微妙な感じだ。BMWが自チームを優先するのは目に見えているからだ。
さてジェンソン・バトン自身であるが、予選~決勝を通じて安定した速さを見せるが、決勝で速い車が後ろから来るとあっけなく抜かれる場面が印象に残る。スピード差を感じ早めに諦めるのか、タイヤを労わり無理をしないのであろうか。チームメイトの佐藤琢磨に比べると速く安定しているがその点では物足りなさを感じる。
今季はドライバーズポイントは上位を狙えないため、シーズン初のポイントを獲得した今後は初優勝を目指してもらいたい。

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2005.06.10

今週のドライバー(ジャック・ヴィルヌーヴ)

ジャック・ヴィルヌーヴ (Jacques Joseph Charles Villeneuve, 1971年4月9日 - )はカナダ人のカーレーサー。 1995年CARTシリーズチャンピオン、1997年F1ワールドチャンピオン。

   
ジャック・ヴィルヌーヴ (2002年)

4月9日、カナダはケベック州に生まれる。伝説的なF1レーサーである父ジル・ヴィルヌーヴに連れられ、幼少の頃よりF1とともに世界をまわって来た国際人でもある。 また、インテリジェンスな面もあり、小説や詩を好み、パソコン・マニア、ゲーム・マニアの顔も持つオタクである。F1参戦時はゲームでコースを覚えたと言って周囲を笑わせたが、2005年現在では、新コースが増え、またレギュレーションの変更でフリー走行時に多く周回を重ねられない事もあってか、ゲームで事前にコースに慣れるドライバーも多い。

1990年代以降のF1ドライバーは子供の頃にカートで レースキャリアをはじめる場合が多いが、ジャックは17歳からレースを始めた、キャリアの浅いレーサーであった。彼の母は息子がレースに関わるのを嫌い、 その為ジャックはスイスの寄宿学校で高校時代を過ごしスキーに夢中になっていた。当時はスキーヤーを目指したともされるが、その高校の体育教師であったクレイグ・ポロックの影響を受け、彼をマネージャーとしてレースキャリアを開始した。以後瞬く間に頭角を表し、当時のアメリカン・レーシングの最高峰であるインディCARTのチャンピオンとなる。

1996年 カナダGP
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1996年 カナダGP

1996年にF1へ転向。いきなり当時トップチームであったウイリアムズルノーから参戦。デビュー戦でポールポジションを獲得し、初年から前年チャンプであるミハエル・シューマッハと互角に渡りあうなど、その才能をいかんなく発揮し、参戦2年目となる1997年にはワールド・チャンピオンとなった。

しかしその後、マネージャーであるポロックが新しいF1チーム創設に動き出し、イギリスの名門チーム、ティレルを買収して1999年ブリティッシュ・アメリカン・レーシング(現B・A・R)を設立。同時にジャックもB・A・Rに移籍した。しかし新参チームにありがちなトラブルが多発。マシンにも恵まれず低迷を続ける。自身の開発能力にも疑問符が付けられた。

その後B・A・Rのチーム代表がポロックからデビッド・リチャーズに変わり、チームとの関係も悪化。2003年の最終戦日本グランプリへの出場を急遽取り止め、そのままF1から姿を消すこととなった。結果の出ない元ワールド・チャンピオンを高給で雇い続けるだけの体力も意義も無かったようだ。

カナダでのF1人気低迷を危惧したバーニー・エクレストンらがヴィルヌーヴのF1復帰に向けて動くなどしてきたことが功を奏したか、2004年中国グランプリからブラジル・グランプリまでの3戦はルノーから、2005年度からはザウバー・ペトロナスから出走している。しかし開幕からチームメイトのフェリペ・マッサに遅れを取る事が多く、苦しい状況が続いている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在は苦戦が続いているが、血筋のせいか人気のあるドライバー。
CART時代から見ているがチャンスは強運とともに物にするタイプ。
優等生が多くなってきた現代F1には必要なキャラクターだと思う。
復活を期待!

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2005.05.29

今週のドライバー(ニック・ハイドフェルト)

誕生日…1977年5月10日nick
国籍…ドイツ

ドイツ国内のカート選手権でチャンピオンを獲得するなど活躍した後、1994年にドイツFF1600フォーミュラにステップアップ、1996年にドイツF3に参戦を果たし2年目となる1997年にタイトルを獲得した。 1998年国際F3000へ。初年度ながらファン・パブロ・モントーヤとタイトル争いを演じる。が、最終戦で燃料規定違反が発覚し、ぺナルティを受け最後尾スタートとなる。これでチャンピオンを逃しシリーズ2位で終わる。1999年マクラーレンのテストドライバーを務める傍ら、引き続き国際F3000に参戦。4勝を挙げチャンピオン獲得、冷静なレース運びから「コンピューター・キッド」と称される。
2000年にメルセデスの契約下、プロスト・グランプリからF1デビュー。チームは混迷期にあり実力は発揮できなく無得点に終わる。
2001年ザウバーに移籍。開幕戦の入賞、第3戦での表彰台などチームメートのキミ・ライコネンより多いポイントを獲得するも、ミカ・ハッキネン離脱で空いたマクラーレンのシートにはハイドフェルドでなくライコネンが座ることになり、メルセデス契約下にあるハイドフェルド本人は不満を覚える。
ザウバーに残留した2002年はルーキーのフェリペ・マッサを相手に、チームメイトよりは上回るものの、得たポイントは前年より下回る。
2003年も同チームに残留、ベテランのハインツ=ハラルド・フレンツェンと組み悪いマシンに手を焼く。
2004年ジョーダンへ移籍、伝統のモナコGPで入賞。
2005年、アントニオ・ピッツォニアとのレギュラーシート争いを経て、ウイリアムズへ移籍し、マーク・ウェバーとコンビを組むこととなった。第2戦マレーシアGPで自身2度目の表彰台(3位)、第6戦モナコGPで、自己最高位の2位、第7戦ヨーロッパGPで初のポールポジション獲得と、活躍を見せている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(ニック・ハイドフェル

祝!地元(出身地・BMW)で自身初のポールポジション!!!
エンジンサプライヤーの地元ということもあって軽めのガソリンでアタックしたとは思われるがマーク・ウェーバーを振り切ってのポールはお見事!先週のモナコグランプリのシケインで綺麗にアロンソを交わしてから波に乗った感がする。このまま初優勝まで持っていけるか!?

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2005.05.07

今週のドライバー(フェルナンド・アロンソ)

フェルナンド・アロンソFernando Alonso, 1981年7月29日 - )は、スペインはオビエド出身の自動車レーサー。現役のF1ドライバーである。

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生年月日 1981年7月29日
国籍 スペイン
身長 173cm
体重 76kg
趣味 フットボール、サイクリング
住所 オビエド(スペイン)
婚姻の有無 独身

わずか3歳でカートに乗り始める。13歳でスペイン・カート選手権のチャンピオン、15歳でスペイン・カート選手権とワールド・カート選手権のダブルタイトルを獲得。更に17歳の時にもスペイン・カート選手権王者に輝いた。1999年はユーロ・フォーミュラ・オペルに参戦、チャンピオン獲得。翌2000年には国際F3000に参戦、シリーズ4位の活躍。ミナルディでのF1テストドライブも経験した。

最年少記録

 アロンソはF1において数々の最年少記録を打ち立ててきた。以下に主なものを記す。

  • 最年少完走‐19歳217日(2001年第1戦オーストラリアGP)
  • 最年少ポールポジション‐21歳236日(2003年第2戦マレーシアGP)
  • 最年少レースリーダー‐21歳236日(2003年第2戦マレーシアGP)
  • 最年少表彰台‐21歳236日(2003年第2戦マレーシアGP)
  • 最年少ファステストラップ‐21歳321日(2003年第8戦カナダGP)
  • 最年少優勝‐22歳25日(2003年第13戦ハンガリーGP)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在もっとも注目されるドライバー。
先のサンマリノGPでラスト10周もの間、ラップで2秒以上速いM.シューマッハを完全に押さえきったテクニックと精神力は見事としか言い様がない。
これからさまざまな記録を打ち立てていくだろう。
今年、ドライバーズタイトルを獲得すると最年少記録となるはず。

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2005.04.19

今週のドライバー(ヤルノ・トゥルーリ)

ヤルノ・トゥルーリ

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ヤルノ・トゥルーリ(Jarno Trulli, 1974年7月13日 - )はイタリア人のF1ドライバー。

彼の両親はモータースポーツ・ファンで、ヤーノ・サーリネン(1973年にモンツァで事故死したフィンランドのロードレース・グランプリチャンピオン)にちなんで彼らの息子を命名した。このフィンランド風の名前は彼がグランプリデビューした当時イタリア人らしくないとしてある種の混乱を引き起こした。彼の父親の熱中は他の多くの成功したレーサー同様に彼を幼年時からカートレースへ参加させた。

イタリアおよびヨーロッパカート・チャンピオンになった後、彼は1996年にドイツF3選手権チャンピオンとなり、1997年にミナルディからF1デビューすることとなった。7レースに出場後、大怪我を負ったオリビエ・パニスに代わってプロスト・グランプリから参戦することとなり続く2シーズン同チームに所属、1999年のヨーロッパ・グランプリで最初の表彰台を得た。2000年にはジョーダン・グランプリに移籍、変則的な2シーズンを過ごし、2003年にはルノーに移籍した。同シーズンは33ポイントを上げ、ドイツグランプリでは表彰台に立つ。また2004年モナコ・グランプリではF1初優勝を果たす。しかし2004年9月にシーズン途中でトヨタへの移籍を決定、チームとの関係が悪化しシーズン途中で離脱することとなる。彼は同年の日本グランプリとブラジル・グランプリでトヨタをドライブした。

2005年のマレーシアGPで2位に入賞し、トヨタがF1に参戦してから初の表彰台に貢献した。

F1デビュー当時はアイルトン・セナに顔立ちが似てるように言われていたが、最近では全く話題にならなくなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

また、父親にもなったそうだ。

 ヤルノ・トゥルーリと妻のバルバラの子供が、15日午後に誕生したという。
子供は男の子で、亡くなった祖父の名前からエンツォに命名された。予定ではサ
ン・マリノGPのあと、トゥルーリ夫妻が住んでいるスイスで出産するはずだっ
たが、ペスカラで休暇を楽しんでいる最中に出産となった。
 エンツォ・トゥルーリは2750グラムで47センチ、彼もバルバラも健康状
態に問題はないとのことだ。

おめでとう。子供もレーサーになるのだろうか。
昨年終盤にトヨタに移籍し、今年3戦終わって堂々2位!の成績は立派。
ヨーロッパラウンドに入ってからは他チームのマシンも調子を取り戻してくるのではと思うのでこの地位を保てるかどうかは不安であるが、マシンは安定しているしドライバーは速い。台風の目になりつづけることが可能か!!

今週末のサンマリノGPはイタリア人の彼にとっては地元。活躍できるか。
去年はJ・バトンが初ポールポジションを獲得。決勝はM・シューマッハが勝ったが予選の走りは比較的重要な部類のサーキットだと思う。
週末が楽しみ!!!

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